[手塚るみ子] がタグ付けされている特集記事

  • 1

    手塚るみ子さんをホストに迎え、毎回ゲストから自分の分岐点となった局面を伺い、 創作の秘密を掘り下げていく対談企画・Crossroad。

    第三回目のゲストにお迎えしたのは、漫画家の松田奈緒子さん。現在『月刊!スピリッツ』誌上にて女性漫画編集者を主人公にした話題の作品『重版出来!』を連載されています。

    雑誌『コーラス』でデビュー以来、女性向け漫画を中心に発表し続けていた松田さんですが、近年青年誌へと発表の場を広げて以降、さらに多くの読者の目に触れる作品を執筆されています。

    松田さんの”自分の分岐点となった局面”とは?『重版出来!』の担当編集者、山内菜緒子さんも交えて、会話が始まりました。


    恋愛ものより「働く女の人」の少女漫画が好きだった

    2

    松田:この絵は、『はいからさんが通る』(大和和紀)を読んでいたときの絵です。私が小学校の四年生か五年生の頃ですね。当時は団地の五階に住んでいたんですけど、友だちが『はいからさんが通る』の単行本を貸してくれまして、母親が仕事から帰ってくるのが、だいたい夕方六時くらいなんですが、辺りが暗くなっても、漫画を読みふけって母親が帰ってきて「あんた、こんな暗いところで何しよってね」と言われて、我に帰ったりして(笑)。それで「どうして私はこの漫画の世界の中にいないんだろう…」と思っていました。 当時の出来事が、漫画家になろうと思ったきっかけになっている気がします。

    手塚:漫画っ子だったんですね。

    松田:今ならDVDとか観ていると思うんですけど、当時の長崎県(松田さんの出身地)にはレンタルDVDもないし、そもそもビデオデッキすらない。そんななかで楽しみといったら、友だちと遊ぶことと、TVを観ること、そして漫画を読むことぐらいだったんですよね。純粋に漫画で育ってきたことを考えると、幸福な子ども時代だったなと思っています。

    手塚:親御さんも、漫画読んでOKという感じだったんですか。

    松田:うちはもう超放任主義でした。何にも言われなかった。本自体がうちになかったんですけど、親と一緒に本屋さんへ行けば『なかよし』や『りぼん』とか、雑誌は買ってくれていたんですよね。だから漫画は何でも読ませてくれていました。

    手塚:大体の親は、「漫画ばっかり読んでないで、勉強しなさい」というか、「漫画も何でも好きに読んで、勝手に外で遊んでなさい」っていうかのどちらかだと思うんです。 ご両親も漫画は読んでいたんですか。

    松田:父親が『じゃりん子チエ』(はるき悦巳)を読んでいました。あとは、『ゴルゴ13』(さいとうたかを)とかかな。

    手塚:松田先生が一番印象に残っているのは、先ほどお話に出た『はいからさんが通る』なんですか?

    松田:“この漫画の世界の中に入りたい”と思ったのが、『はいからさんが通る』ですね。 後で気がついたんですけれど、私は「働く女の人」が好きみたいですね。『はいからさんが通る』も主人公の「紅緒さん」が働いていたんですね。 どうも自分が好きな少女漫画は“社会の中へ転がり出て働かなきゃならない”という境遇に放りこまれた少女たちが多くて、そういう傾向の作品がすごく好きでした。 『キャンディ・キャンディ』(水木杏子/いがらしゆみこ)も好きでしたが、あの作品も働いていますし。少女漫画の定番の「恋愛」とかはなぜか興味が持てずで(笑)

    手塚:「働く女の人が好き」、という意味では、松田先生が現在執筆中の作品(『重版出来!』)にもつながっている気がしますね。

    松田:そうなんですよ。自分が描いているものは、女性がみんな働いているんです。

    手塚:私は松田先生の漫画は『コーラス』で初めて読ませていただいたんです。 その作品の多くは、女性の活躍や自立を描かれている印象があったので、今のお話を聞いて「やっぱりそうだったんだ」と、すんなり納得しました。

    松田:自分ではずっと気がつかなくて、そういう話しをさせていただく機会があって、初めて気づきました。

    3

    漫画は“最後のプライド”だった

    手塚:漫画を描き始めたのも、この絵のときくらいですか。

    松田:紙に鉛筆で描いていたのは、小学校五、六年生の頃だったかな。

    手塚:その頃に漫画を読んで、以来、ずっと漫画家になりたいと思っていたんですか。

    松田:そうですね。“なりたい”というか、“なるもの”だと思っていました。歳を取ったらお婆ちゃんになるように、私は漫画家になるんだ、と。でもふつうは模写とかする思うんですが、私の場合は、ぜんぜん努力もせず、ただ漫画を読み、ノートに鉛筆でオリジナルの漫画を描いて、友だちに読ませたりしていたんです。 それから、中学二年生くらいだったかな…ペンで漫画を描いて、雑誌に投稿し始めたんです。

    手塚:友だちに漫画を描いている子はいたんですか。

    松田:いませんでした。私は友達に「似顔絵描いて」とか言われたりして、大人気でしたよ(笑) みんなから「なおちゃんは将来漫画家になるんだ」と言われてたんですが、志望した高校のデザイン科を受験したら、失敗したんです。それからは、みんな腫れ物に触るようになってしまって。「なおちゃんは漫画家になれないんだ…」という感じです。 自分でも、受験に落ちたことで、夢を否定されたような気がして。高校入学後は、友達もつくらず誰とも口をきかないで…そこから三年間、ひたすら小説を読んで、かなり暗い高校生活を過ごしました。漫画の投稿も続けていたんですが、ぜんぜん引っかからなかったですね。

    手塚:全部自分で抱え込んで、悶々としているわけですよね。周りに話してわかってくれる人はいたんですか。

    松田:私が行きたかった高校のデザイン科には、谷川史子さんがいらしていて。当時、谷川さんは学内の漫研で作品を描いてらして私も誘っていただいたんですが、参加しなかった。もし誰かが自分の漫画を否定したらと、どこかで怖かったんだとおもいます。 自分の実力を知るのが怖かった。当時の私にとっては、漫画が最後のプライドだったので。もしあれで、自分が漫画でもたいした人間ではないんだと思ってしまったら立ち直れなかったと思います。

    谷川さんはその後、高校在学中に漫画家デビューなさったんで、私が上京したあとも連絡をとって、いろいろアドバイスしていただいたりしていました。 谷川さんがいたので、漫画家になるという夢を捨てないでいられたというか、谷川さんのそばにいれば、「何とかなるんじゃないかな」みたいな気持ちがありました。

    手塚:唯一の救いみたいなものですね。松田先生はその後、一度OLになられてるんですよね。

    松田:東京に出たくて、寮がある会社を選んだんです。寮があれば親にお金のことで迷惑をかけないし、そこで一年八か月働いて、ひとり暮らしできるくらいお金を貯めまして、その時ちょうど木原敏江先生がアシスタントを探してらして、運良く拾っていただいて、そこから漫画の生活がスタートしました。 二十七歳のときに、デビューできて、自分の描きたいようにやっていたんですけれど、当時は周囲に対して「何で私の良さがわからないの?」 という風に、自分で努力を一切しないのに思っていました(笑)

  • TS_b620872011

    手塚るみ子さんをホストに迎え、毎回ゲストから自分の分岐点となった局面を伺い、創作の秘密を掘り下げていく対談企画・Crossroad。

    第二回目のゲストにお迎えしたのは、漫画家の田中圭一さん。『ドクター秩父山』 、『昆虫物語ピースケの冒険』等の作品に加えて、手塚治虫タッチの絵柄で描かれた『田中圭一最低漫画全集 神罰』等、パロディ漫画家として多数の代表作を世に出されています。

    最近では『田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-』、『Gのサムライ』、『うつヌケ 〜うつトンネルを抜けた人たち〜 』等WEB上での作品発表も積極的に展開。その他、京都精華大学マンガ学科ギャグマンガコース特任准教授も務められているという、マルチな活動を続けられています。

    1994年、『COMIC CUE Vol.SIX』(イースト・プレス)手塚治虫リミックス号に手塚プロダクションの公認パロディ 『神は天にいまし 世はすべてことも ないわきゃあない』発表以来親交のあるという田中さんと手塚さん。

    田中さんの”自分の分岐点となった局面”となったイラストを元に、二人の対談が始まりました。


    劇画村塾がきっかけではない!?-

    手塚:今日はよろしくお願いします。 田中さんとかしこまった形でお話するのは、珍しいですね。いつもは飲みながらのお喋りで、しかも下ネタで盛り上がることが多いから。

    田中:下ネタ以外の話はしてない気がしますね。

    手塚:今日は占いで、おうし座は『口は災いのもとになり、関係が悪化する』と言われて、よりによって対談の日に…と思いました。ちょっと気をつけようと思います。

    田中:関係が悪化するんですね。世間的には完全に悪化している状態ですから、これ以上はないですよ。

    手塚:では、まず、なぜ漫画家になったか、そのきっかけからお伺いします。「自分の分岐点となった局面」を絵にしていただいてますが・・・

    田中: (『Crossroad』vol.1 ゲストの)浦沢直樹先生の次に描くということで、プレッシャーがかかりました。これが漫画家を目指したきっかけの絵です。

    田中圭一先生 クロスロード 3 24

    手塚:ご丁寧にありがとうございます。これはトイレを我慢している絵ですか?

    田中:違います(笑)。この絵は漫画家を目指そうと決意した場面です。 小学生の頃から、ノートに漫画とかは描いていて、憧れとして漫画家になりたいという思いはありました。それで、現実として、なれるかと考えると「まあ無理かな」とか、「ひょっとしたらなれるかも」といった感じで…。小さい頃から漫画家に絶対なりたいと思っていた人とは、違うタイプだと思います。

    IMG_8203

    田中:やっぱりきっかけとなったのは、小池一夫先生の劇画村塾神戸校が開校して、そこに通うようになったことですね。 当時、東京の一期生の高橋留美子さんが、大ブレイクしている最中でした。そこで、高橋さんが生徒だった、また『子連れ狼』の原作者が教える塾というのはどんなものなのかと気になって。 門下生になるというより、どんな授業をしているのかという好奇心から受けはじめたんです。

    劇画村塾は最初に生徒を大人数、受け入れて、一年間教えて、二年目は三十人に絞って、その人たちがデビューできるまでの道筋を教えていくんです。要するに、一般教養と専門職といった感じですね。 だから一年目は漫画らしいものが描ければ入れるんです。僕は劇画村塾の一年目に、自分がどんな漫画を描くべきなのか迷いがあったんですよ。面白いこと言うのが好きなので、ギャグがいいかなと思ったんですが、紙に描いてみるとさっぱり面白くないんです。それでギャグなのかストーリーなのか迷っていたんです。

    ちょうどそんなとき、授業前に近所の本屋へ入って、泉昌之さんの『かっこいいスキヤキ』を見つけたんです。タイトルはちらほら耳にしていて、「最近みんなが話題にしているマンガってこれか」と思って読んでみたら、「こんなギャグマンガ見たことないや」と衝撃を受けました。 シリアスな劇画タッチで淡々と進むんですが、やっていることはとんでもなくバカなんですよ。 『かっこいいスキヤキ』は、シリアスな絵でバカなことをするというギャップがもの凄くて、これが自分の目指す方向なんだなと気がつきました。 「これは面白い」と思ったので、授業中も机の下で笑いをこらえながら、読んでいましたね。

    ですから、この絵(田中氏が漫画家を目指したときの場面の絵)は、小池先生が真剣に授業をしているときに、僕が漫画を読んでいる場面です。小池先生も気がついていたんだと思いますよ。「こいつ授業中、笑いこらえながら、何読んでやがるんだ」と思っていたでしょうね。

    手塚:劇画村塾がきっかけじゃないじゃないですか(笑)

    田中:でもそこで、課題を描いて、評価されてデビューするというルートができていたんですよ。 “料理人を目指そうと思ったら、たまたま実家がトンカツ屋だった”みたいな距離感。ちょうどこの漫画が好き、それで描きたいと思って描いたら、評価がよかった。 それで、小池さんの会社が出していた、『コミック劇画村塾』という雑誌に載って、デビューできたんです。仮に「こういうのがいいな」と思っても、その後、原稿を描いて、投稿持ち込みへ行くのはすごいエネルギーがいるじゃないですか。そこまでやるほどの情熱は僕にはなかったので、両方の合わせ技のタイミングだったんですね。

    手塚:最初は興味本位だとしても、劇画村塾に通うとしたら、結構長いスパンをとられるじゃないですか。どうして何年も通えたんでしょうか。大学を卒業してから、通われたんですよね。

    田中:大学に行きながら、塾には通っていましたね。月に一回第三金曜日に、社会人やりながら勉強している方もたくさんいたので、劇画村塾は遅い時間にスタートなんですよ。

    手塚:漫画のほうの道を選んで、大学の道をおろそかにすることなく、両立されていたんですよね。

    田中:そうですね。そういうと聞こえがいいですが、「絶対にプロになりたい」という情熱がなかったし、中途半端に真面目だったんです。大学の単位をとるため課題もしないと、と思いながら、一方で塾でも課題があるから、と描いていただけですね。


    サラリーマンとの両立

    4C9A41971手塚:就職活動はされたんですよね。 ギャグ漫画家としての自分の道が見えつつも、社会人としての田中さんもいて、それが両立したまま社会に出ていったという感じですか?

    田中:大学三年生のときに、曲がりなりにもデビューをして、四年のときには劇画調四コマを連載していたんですよ。大学卒業の頃には、その連載を六回か七回やっていて、毎回6ページくらい連載していたんです。漫画家になりたいという情熱が高ければ、その作品一本で、他の出版社を回ったりしていく道はありました。 でも、四年生で就職しなきゃという気持ちもありました。

    当時はバブルの時代でしたから、三流大学でもいい会社に入れたんですよね。でも、文系だったので企画開発職は無理だったし、まぁ、営業くらいしかやらせてもらえないだろうな、とは感じていました。 それなら、よくわからないものを売るくらいなら、好きなものを売りたいなと思って、プラモデルと玩具のメーカーを受けたんですね。それで二社ほど内定をもらえて、好きな方のメーカーに入社。

    漫画は中途半端に連載があって、ここでやめるのはおしいな、という気持ちもあるし、編集部からも、「月に6ページだから、当面は様子見で続けたら」と言われたので、「やります」と。流された感はありますが、大変だなと思いながらも続いて、今に至ります。

    手塚:漫画家には、漫画家になりたいと思って進んだ人と、なれるから漫画家になったという人がいるかと思うんです。 田中さんは後者だと思うのですが、仕事を捨てなかったというところが珍しいです。

    田中:漫画の仕事があるから、サラリーマンはつまらなかったらやめてやろうと思っていたんですが、仕事は楽しくて続けられました。 よくバブル期の営業マンは華やかに語られますが、当時の営業はとんでもなく高いノルマを課せられるんです。昨年度より三十パーセントアップという目標を、どの会社もクリアしていったからこそバブルになったともいえるのです。けれど、そこで下働きする私たちは、バブルではよい思いをしてないんですよ。大変でした。 でも、玩具は毎月いろいろな商品が出てきて、売り場でリカちゃんサイン会などの催事がありました。

    僕はアニメや漫画が好きだったので、「あの漫画がアニメ化して、その製品がうちから出るの?」みたいな、業界とのリンクもあったりして、それが楽しかったんです。 あとは体育会系の職場だったから厳しくもあるけど、明るい人が多くて、ガツガツ仕事して夜の飲み会とかでバカやって凄く楽しかったですね。 それに漫画も単行本で十万部くらい出ていたので、どちらの生活も捨てられなかったですね。表裏一体の充実感はありました。

    手塚:ずっと兼業でサラリーマンと漫画家をやってきて、仕事配分と精神的な配分はどうしていますか? 田中さんは真面目だから、どっちもがっつりやるとは思うのですが。

    田中:そうですね。玩具メーカーの日常って色々と破天荒なエピソードも多くて、そうしたものを土日の漫画作成のアイディアとして取り入れられる。つまり、常にネタがインプットができるので、ラッキーな状態でもあったんです。

    手塚:普通の人は、AというものをAとインプットするけれど、田中さんはギャグ漫画家だから、Aというものをインプットして、Aとは別の面白いものに変換してアウトプットすることができたと思うんですね。

    田中:僕は中学、高校と関西にいたので、いわゆるクラスの面白いやつを目指していたこともあるんです。そこでノリつっこみやボケとか笑いの基礎というものを学びましたね。 関東に比べると、関西は面白いやつがモテるんですよ。ルックスで負けていても、ギャグセンスで挽回できる。

    手塚:田中さんは関西の面白い男の子でも、体でバカやって受けるのではなく、頭をつかって話で笑わせる派な気がします。

    田中:どちらかというと、そうですね。運動神経はよくはなかったので、体で笑わせるより、話芸やちょっとした間の取り方とか、変なものを作って笑いとるのは大好きでしたね。それが漫画にそのまま繋がっていますね。


    影響を受けた漫画家

    手塚:子どものときから漫画を読んでいて、影響を受けた人はいましたか?

    田中:ギャグ漫画は好きで、中でもパロディとかサブカル系のものが好きでしたね。パロディがすごいと思ったのは、ラジオ番組で 『欽ちゃんのドンといってみよう!』のまとめ本があって、それに新聞のテレビ欄が見開きであったんです。それをよく見ると、隅々まで全部パロディになっていたんです。どこを見ても笑えて、パロディは面白いんだと思いました。

    サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』とかの読者投稿コーナーとか立ち読みするようになったし、あとはアニメ雑誌で『月刊OUT』があって、あれはアニメを取り上げつつも、読者投稿がメインであったし、そこからゆうきまさみさんとかがデビューしたりしていていましたね。 もちろん、王道のギャグ漫画、低学年で赤塚不二夫さんの『天才バカボン』、高学年になってからは山上たつひこさんの『がきデカ』とかも好きでしたね。

    手塚:やっぱりストーリー漫画よりもギャグ漫画のほうが、好きだったのですか。

    田中:関西の風土があって、お笑いが好きだったのはあります。もちろんシリアスも好きで、自分が小学校、中学校のときに胸をときめかしたのは、手塚治虫先生だったり、松本零士先生だったんですよね。 手塚先生の絵を真似たいと思ったきっかけになる、自分の根っこにあるのは昭和の漫画の数々でしたから。 やっぱり小学校、中学校のときに、胸をときめかせた漫画というのは根深いものがありますね。

    手塚:当時は雑誌単位で読んでますよね。

    田中:あのときの漫画は、型破りのものも王道なものも同じ雑誌に載っていたし、コンテンツとして「これはやっちゃだめ、これはやっていい」というようなセオリーがブラッシュアップされる前の段階ですよね。面白ければなんでもぶち込んでしまえといった風潮がありました。あの頃の漫画をたくさん読んでいたというのは、幸運だったなと思います。

    手塚先生の漫画というのは、僕より上の世代の人が崇拝していて、むしろ一歩引いた距離で読んでいました。どっぷりとはまったのは『ブラック・ジャック』とか『三つ目がとおる』以降になります。小学校四、五年くらいですね。そこから、『火の鳥』などの作品を読んできました。 『火の鳥』は、雑誌サイズのまとめ本を読んでいましたね。あのスケールのすごさは桁が違うな、と思いました。みんなが手塚治虫を崇拝するゆえんかなと思いました。

    手塚:田中さんの口から『火の鳥』の話がでるのが、凄く違和感がありますね(笑)。 前回対談ゲストの浦沢直樹さんなら、ふんふんと聞くのに、田中さんが真面目な話してるのは、違和感がある。

    田中:江頭2:50が「黒澤映画のこんなところがよい」と真剣に話しているとか、そんなノリでしょ。

    手塚:なんとなく素直に聞けない(笑)。

    田中:当時ギャグ漫画とかお笑い番組とか好きでしたよ。『オレたちひょうきん族』は大学生くらいのときかな。笑いすぎて、画面が見られないくらいでしたね。

    手塚:ナンセンスなバラエティーが多かったですよね。脈絡がない。ある種パロディのようなものとか。

    田中:マンガでは赤塚不二夫先生の『レッツラゴン』なんか、とくに脈絡ないですよね。ロジックでは出てこない、感性で作られているものには憧れを感じますよね。 くしゃみすると上の棚からタライが落ちてくるというのは、一種のロジカルじゃないですか。でも『ひょうきん族』で、ビートたけしと明石家さんまが会話がかみ合わなくなって、わやくちゃなことを話しはじめるのは意味がないし、わけがわからない。 ロジックで作られたものは、感性で生み出したものに勝てないんですよね。

    手塚:田中さんもそんな感性にもとづく漫画を生み出したいと思っているんですよね。ただ田中さんの場合は下品とか下劣とか、そっち方面へ行くじゃないですか。そもそも何がきっかけでそっちへ行ったんですか?

    田中:二十代で、そういった下ネタ漫画を描いているのは問題ないと思うんですよ。相原コージさんや喜国雅彦さんも、そうしたものを描いていました。でも僕は、五十代になってもまだ描いている。これは頭を悩ませなければいけないところですよね。相原さんも喜国さんもそれなりの年の取り方をして、年相応の作品を描いているにも関わらず、僕は『Gのサムライ』のようなものを描いているわけですよ。何を間違えたっていう(笑)。

    手塚:絵は丁寧なのに、描く内容がひどい。そのギャップが田中さんの魅力だと思うのですが、真面目な話だったりしても、まったく逆のパロディにしてしまって、底辺まで落とすというのは小学生の男子レベルの考え方ですよね。

    田中:もしも江頭2:50が六十歳まで同じ芸風なら、もう、あきれて笑うしかないといった感じですよね。僕の頭には中学二年生の自分が住み着いているんです。オナニーだとか包茎だ、という話に熱くなるし、セックスの経験がない中で、実際はこうじゃないかという妄想だけで話をしている。もちろん実体験はしているのですが、頭の中では童貞なんですよ。

    手塚:女子から凄く蔑まれている年齢ですね。

    田中:さくらももこさんが、「中二男子ほど、バカな生き物はいないんだ」と言っていますからね。


    田中圭一が見るギャグ漫画の分岐点

    4C9A42016

    手塚:原点はそこにあって、芸風は変わらずですが、デビューした頃からそうした芸風だったのですか?

    田中:当時はそこまで酷くなかったですけど、相原コージさんとかが『スピリッツ』の巻末の4コマで、「商業誌でこんなこと描いていいのか?」と思われるようなものを描いていたことがあって、「スピリッツに載っているんだし、こういうの描いてもアリなのね」と気がついたんです。 そういう意味で、アンモラルギャグにおける未開のジャングルをひとりで切り開いていったのが、相原さんだったんですね。あと喜国さんも同じ時期かな。

    手塚:『週刊スピリッツ』はセンセーショナルな雑誌でしたね。吉田戦車さんも『伝染るんです。』を連載されていましたよね。

    田中:戦車さんが、ギャグ漫画にとどめを刺したと思うんです。あれ以上、尖りようがなくなってしまった感はありましたね。 劇画村塾にいた頃は、「まったく意味がわからないギャグはやめなさい」という指導もあったと思うんですよ。僕は当時デビューして、単行本も出しつつある時代ではあったのですが、世の中的には『スピリッツ』の巻末に『伝染るんです。』が載ってしまうと、「意味がわからないギャグはダメです」とは言えないですよね。なにしろ、もの凄く面白かったから。

    手塚:あの当時はいろいろ斬新なものがありましたよね。

    田中:相原さんが連載する前は、原律子さんが衝撃的な作品を描かれていました。

    手塚:そうですね。女流漫画家さんがああいう下ネタギャグを描くというのはなかったですね。

    田中:あっけらかんとしているからよかったものの、女の人でここまで描くんだ、と思いましたね。 時代的には、吉田戦車さんが出てきて、よかったんです。あの人が、お下劣以外じゃないギャグでブレイクしたので、お下劣はせき止められたんですね。下ネタがエスカレートしていったら、大変なことになっていたかもしれないですよね。

    時代的にも遊人さんの『ANGEL』が有害コミックとなったじゃないですか、あの時代に吉田戦車さんがいたので、ギャグは下ネタのほうへ進まなかったんですよね。流れが不条理に進んでいったんです。だから、ギャグ漫画は当時、槍玉に挙げられなかったんですよ。

    手塚:吉田さんの影響は大きいんですね。

    田中:あの流れで、『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!! マサルさん』(うすた京介)や『ギャグ漫画日和』(増田こうすけ)とか、多くの不条理ギャグマンガが生まれたので、吉田さんがいなかったらひょっとしたら、ギャグ漫画はヤバい方向に進んで滅びていたかもしれない。下ネタの方へ行くだけ行ってしまって、結果『あずまんが大王』(あずまきよひこ)のようなほのぼの笑える系に主流をさらわれていた可能性はありますよね。

    手塚:当時『スピリッツ』は、いろいろな影響力を持つ作家の宝庫でしたよね。誰もが通勤電車で『スピリッツ』を読んでいました。

    田中:『スピリッツ』を好んで読んでいたのは、最先端のトレンドを追いかけていた人々で、おしゃれでトレンディな漫画がたくさん載っていたから、支持されていた。でもスマートフォンだとかガラケーだとかで情報をチェックするほうがトレンドの最先端だとなった瞬間、今まで読んでいた人が、雑誌を買わずにそっちへ行ってしまったので、『スピリッツ』も方向を変えざるを得なかったのかなと思いますね。個人的には。

    => 手塚治虫リスペクト-

  • Crossroad 画像[1]

    手塚るみ子さんをホストに迎え、毎回ゲストから自分の分岐点となった局面を伺い、創作の秘密を掘り下げていく対談企画・Crossroad。

    一回目のゲストは『YAWARA!』、『パイナップルARMY』(原作・工藤かずや)、『MASTERキートン』(脚本・勝鹿北星 長崎尚志)、『20世紀少年』、『BILLY BAT』(ストーリー共同制作・長崎尚志)など数々の代表作を持つ漫画家、浦沢直樹さん。

    1999年に『MONSTER』、2005年に『PLUTO』(原作・手塚治虫 監修・手塚眞 長崎尚志プロデュース) で過去二度に渡って手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。手塚るみ子さんのリクエストで今回の対談が実現しました。

    幼年期に手塚治虫から多大な影響を受けたという浦沢さん。多数の作品を生み出し続けている創作現場へとお話を伺うために訪問しました。

    仕事場に一歩足を踏み入れると、壁一面に配された本棚に目を奪われます。所狭しと並んだ書籍の中には手塚漫画が置かれた一角も。漫画のページを捲りながら二人の対談が始りました。

    4C9A32961
    4C9A3317
    4C9A3276


    -漫画家のライフスタイル-

    手塚:すごい蔵書ですね。私は雑誌掲載時には父の作品をあまり読んでなくて、単行本になってから読んでました。

    浦沢:僕らの時代、単行本は主流じゃなかったんですよね。

    手塚:この間、手塚治虫の元チーフアシスタントの福元一義さんがテレビに出られていまして、それが『1位じゃなくっていいじゃない』というテレビ東京の番組だったんですけど、福元さんも漫画家を目指して、一度は漫画家になったのに、最終的にアシスタントで終えてしまった時に「自分の作品よりも、手塚先生の作品が1つでも多く世に出たほうが良いから」ということを言ってくださったんですよ。

    浦沢:漫画家になるのとアシスタントになるというのとは、別の資質なんですよね。さらに売れっ子漫画家になるというのはまた別で、全部資質が違うんですよ。だから、例えばテレビ界でいえば、AD(アシスタントディレクター)という役割がその人の資質にとっても合う人がいる。うまい食べ物を買ってきてというと、本当にうまい食べ物を買ってきてくれる。それとは別に社長の資質がある人もいる。位の上下ではなくて、資質としてその仕事にその人があっているのかというものがあって、社長の資質がある人がADをやったらきっと下手だと思うんですよ。社長として活躍出来たとしても、その人はADの役割には向いてないんですよ。

    手塚:そうかもしれないですね。

    浦沢:漫画家の資質の人、アシスタントの資質の人というものはありますから、そこの仕事にぴったりはまるかということなんですね。手塚先生の漫画を支えた人とか、黒澤明の美術を支えた人とか、たくさんそういう人がいるじゃないですか、そういう人がいたからこそ作品は出来あがるので。

    手塚:そうですね。うちの父は誰のフォローも出来ないタイプだと思いますね。周りが一生懸命に支えて、ひとりの人間としてやっていけたんだろうなと思います。だから、福元さんがいなかったら、作品の量産するペースとかが違っていたんだと思います。あの方がいたからこそ、これだけのタイトルが残せたんだと思います。そのなかで、3タイトルくらい私のわがままで父の時間を取ってしまって描けなかったものもあるんですけど(笑)。

    浦沢:僕はデビューの頃からずっと仕事の受注やギャラ交渉も全部自分でやっています。周囲から驚かれるのですが、僕はなんとなくやってきちゃった。

    手塚:最近は漫画家先生もマネージャーをつけてることが多いですよね。あと意外だったのは、浦沢先生はご家庭を仕事よりも優先されているんですよね。

    浦沢:うちの家庭は「漫画は二番目」という決まりがあって、漫画が生活の一番じゃなくて、家庭が一番です。仕事中でもインターホンが鳴って「ご飯よ」と呼ばれると、どんなに乗って仕事をしていても筆をおかないといけないんですよ。それは30年間の決まりなんです。「まずご飯を作った人のことを考える」と妻が言うんですよ。なるほど言うとおりだなと。

    手塚:それはご結婚されて、生活の中で作っていかれたんですか。

    浦沢:妻は僕が漫画家になる前の学生時代から知っているので「仕事でヒーヒ―言っているのは、あなたらしくない」と(笑)。健康管理は完全に妻に任せています。

    手塚:そうですね。仕事をこなすためにも健康管理も、時間の管理も睡眠もというのは、奥様が一番気遣う役割になるんでしょう。

    浦沢:週刊連載の作業は短距離走で駆け抜けるかんじだと思います。やっぱりある量が出てこないとムーブメントは作れない産業なので、多少無理をしてでも量を作らないといけないんでしょうけどね。

    手塚:ご家庭のことを優先した場合、睡眠や仕事などライフスタイルはどう配分されているんですか?

    浦沢:この十年はかなり仕事を絞ってますよ。身体を壊してドクターストップかかった時もあったので。今は淡々と月に24ページを二話分で48ページは描きますけど、それ以上はなるべく描かないようにしています。

    4C9A3354

    手塚:それ以外には、イベントや取材といったこともされてますよね。

    浦沢:『浦沢直樹の漫勉』というTV番組をNHKで企画したり、音楽を作ったり漫画以外の動きがとれる時間が多少出来ますね。

    手塚:プロデューサーも出来る方だとみなさんに知られているんですね。『漫勉』は次の放送もあるんですか?

    浦沢:そうですね。一応そのつもりです。『漫勉』企画の発端は、一般的に漫画制作の過程が知られていなくて、毎回外に出る度に「漫画家とは」から説明する状況がいつまで続くんだろうという事を漫画家さん達と仲間内で話題にしていたんですよ。大友克洋さんも「なんとかアーカイブしないといけないんじゃないの?」 と言っていたし、始まりはそんなかんじですね。

    手塚:漫画家の先生方みなさんが思っていらっしゃたんですね。私も父親が漫画家でありながら、漫画家の仕事場のことを知らなかったので、どうやって漫画が出来あがってくるのだろうと興味を持って観ていました。

    浦沢:毎週簡単に印刷物で手元に届いてしまうと、読者はその価値がわからなくなるんじゃないかと思ってました。漫画家の皆さんが超絶技法で毎週地獄のようなスケジュールでみなさんにお届けしているというのは一般の方は想像する事すら出来ないんですよね。そこに深い断絶の溝が出来てしまっているから、まずそこは埋めないといけないと思いました。一筆一筆描いているんだというのを見せたいと思って番組をやったら僕らが思っている以上の反応があったんです。そこそこ知らないだろうなと思っていたら、番組が終わった後の何万という反響のツイートがあってみんな吃驚したといっていました。「ほらぁ、やっぱりみんな知らないんだよ」と(笑)。

    4C9A3420[1]

    手塚:私は父親が漫画家でも分からないことありましたからね。

    浦沢:超絶技法と一般の生活に差がありすぎるんですよ。想像を絶し過ぎてしまって。ひとつの絵を描くのに誰手も一般の人はマゴマゴしてしまっているのに、あっという間にドラマがついて演技がついてきれいな絵がどんどん出てくるんですよ。そのあまりの違いを想像出来ないんですよね。

    手塚:描くペースというのは技術としてまず分からないですね。すでに描かれた原稿は、家の中で転がっていたので、見ていたんですけれど、実際に描いてる速さを実感することはなかったですね。


    -浦沢作品の創作秘話-

    -仕事机には作業中の貴重な原稿やネームが・・-

    -仕事机には作業中の貴重な原稿やネームが・・-

    編集部: 浦沢さんのネームは凄く細かく描かれているんですね。通常のネームは丸チョンで描いてるイメージです。

    浦沢:デッサンも構図も演技も出来あがっているでしょう。こういう技術があるので大量に早いスピードでものが出せるんです。頭に構図が浮かんだらすぐに頭に浮かんだものを一瞬で描く。えーと・・・、とならないんですよ。これはネームなので、完全に白い紙にドラマと構図を作っていく段階ですが、凄いスピードで描くんです。

    編集部: コマ割りなども直さないのでしょうか?

    浦沢:凄いスピードで描いたネームをゆっくりと原稿用紙に描き直す段になって、これ逆かな、とか描き直すと何かおかしくなってしまうんです。だから逆にネームの通りの構図にするために設定とか変えてしまうこともあります。読みやすいとか、ちゃんと感情が流れているというのは、熟考しないで勘だけで描いているからでしょうね。

    手塚:それは長年培ってきたなかで、出来あがっていったんですか。

    浦沢:5才頃から描いていた経験ですね。1965年頃『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を読んでいたあの頃から、ずっと培って来たので。頭の中にすでに漫画があって、それをかき集めて作るんです。よく将棋に例えるんですが何手先みたいにと考えるんです。

    手塚:そういういった時に食事で呼ばれてしまったらどうするんですか?

    浦沢:それはもちろん、食事ですよ(笑)。一度止めてもう一回見ると別のアイディアだったりここにミスがあるとか気づくんですよ。こんなにスピードが速いと、逆に流れていってしまうので、立ち止まる方が良い場合もあります。僕は5ページざっと描いたら、すっとやめて、また見直して描いたりしますね。ここはリズムおかしいなと思ったらここで一コマ足すとか。

    手塚:ネームの前にプロットなど書かれた上でネームにおこすんでしょうか?

    浦沢:プロットはただのメモ書きですね。打ち合わせの時にワーッ!と書いたような文字を見ると、何かいてあるか分からないんですけどね。なんだっけこれみたいな(笑)

    長崎尚志さんとの打ち合わせの時は、今の『BILLY BAT』の場合だと一話分24ページなんですけど、こんな内容とか話をしながら頭の中でページ配分をしていて「今18ページくらいだから、あとワンエピソード入りますよ」という感じです。

    手塚:思ったよりページ数が余ってしまった場合は、例えば絵を大きくしたりして全体的にページ調整をされているんですか?

    浦沢:そういう事はあまりないですね。僕は絵を大きくするとかあんまりしないんです。そういう場合は他のエピソードを入れてますね。コマの大きさというのは、演出なので、ページ数が余ったからといって変えていたら演出ではなくなってしまいますので。あとは、長くなってしまった時はネームをハサミで切るんですよ。それをテープで止めて、繋ぎ合わせるんですね。

    手塚:コマや絵の大きさによって、読むテンポが変わってしまいますよね。

    浦沢: 僕は見開きはほぼ使わないですね。見開きはその作品の最大のクライマックスなので、軽く扱ってしまうと、見開きのデフレが始まってしまうんですよ。見開きが最大の画面なので、ここぞという時のために取っておくんですね。

    手塚:原稿はGペンで描かれているんでしょうか?

    浦沢:最近は日本字ペンなんですよ。カブラペンよりも細い線が出るかな。カブラペンとGペンの間なんですよね。『MONSTER』は丸ペン一本を使っていたんですけど、丸ペンは年齢が若くないと使いこなせないかも。大友さんも『AKIRA』の時ずっと丸ペンで、古くなった順に1号2号3号とつけて、線の太さを変えていたみたいですよ。

    手塚:年取って使えなくなるというのは、自分が変わるんですか?

    浦沢:変わるんですね。丸ペンはパワーを必要とする感じがします。細い線から、太い線まで緩急つけるのに、相当体力を使うんですよ。それで過去に身体を壊したので、それから丸ペンを使うのをやめたんですよ。1日10数時間描いていて、鎖骨から肋骨にかけて相当固まってしまって、左肩が脱臼みたいな状態になっちゃったんですね。鎖骨や肋骨は柔軟性が大事なので、それが硬直してガッチガチになっているところに無理して描いていたら、朝起きた時に左肩が付いてこないんですよ。悶絶して、ちょっと痛みで描けませんと編集部に伝えたら「わかりました。今の原稿仕上げたら倒れてください」と言われました(笑)。

    手塚:残酷ですね・・。

    浦沢:結局病院で痛み止め打って原稿を仕上げました。手塚先生に比べたら半分にも満たないんですが、月6回〆切りというのを20年間こなして、月130ページくらい描いていたんですよ。それでいつか身体を壊すなと思っていたんですが・・。でもその程度のことで自分に身体の危険信号が来たんだからラッキーだなと思いました。とにかく仕事すると結局身体に歪みが出るので、週一回トレーナーに診てもらっています。

    昔の手塚先生のドキュメンタリー映像を見ると、全然前のめりにならない姿勢で描いていますよね。

    手塚:TVの取材だとカッコつけるから、普段からそうだったのか分からないですけど、寝床でねっころがって書いている時は、かなり目を絵に近づけて描いていましたね。

    => -TV『漫勉』制作のこだわり-

  • 対談表紙 喜国先生-国樹先生

    11月3日から9日迄、東京都吉祥寺「GALLERY KAI」にて開催される「手塚治虫の美女画展」。“手塚治虫作品のエロス”について焦点を当てたこの展示会と連動して行われる『手塚治虫の美女画展』×『MangaStyle』の特別対談の二回目のゲストは『傷だらけの天使たち』『月光の囁き』等ギャグからシリアスまで”エロ”を題材にした作品を代表作に持つ漫画家・喜国雅彦さんと、喜国夫人で同じく漫画家である国樹由香さんを迎えた鼎談形式。

    企画の発端は1999年イースト・プレス発刊の漫画雑誌『COMIC CUE volumeSIX 特集:手塚治虫REMIX』号にて、トリビュート作品として喜国さんが『アポロの歌』を、国樹さんが『手塚ワールドにおけるかわいいがいっぱい!』を寄稿、その掲載作品を見た手塚るみ子さんから是非作者のお二人に御話を伺いたいとの希望で鼎談が実現した。

    開始の前の何気無い雑談から、手塚さんと喜国さんの間にとある偶然が発覚!

    喜国) 昨日鼎談前にるみ子さんの経歴を見ていて驚いたのですが、るみ子さんが勤めていた会社で僕も同じ時期にアルバイトしていました。

    手塚) ええっ、本当ですか?

    喜国) 感慨深いです。その頃僕は手塚プロ出身の高見まこさんのところでアシスタントしながら持ち込みをしていました。そんなところで手塚先生と繋がっていたのかと感動しました。そういう想いも込めて今日はよろしくお願いします。

    -不思議な縁に導かれた様に3人の会話が始まっていった。


    “巧妙で危険”な手塚作品

    喜国) 僕は現在56歳になるんですが、アニメの『鉄腕アトム』がドンピシャ世代で、子供の頃はもちろん夢中になりました。 ショックだったのは最終回のアトムの死。でもそこをハッキリ描いていないから、幼かった僕には事情が判らない。「今のどうなったの?」って父親に聞いたら「地球を守るために死んだ」って言われて……。もうね、泣きまくりですよ。なんてひどい終わりなんだと。大好きだった手塚治虫がいっぺんで嫌いになりました。(笑) でもね、今にして思えば、あれはいい体験だったと思います。世の中いいことばかりじゃない。辛いこともある。子供心にそれを知ってしまったおかげで、その後の人生の苦しい場面を難なく乗り越えることが出来てますからね。(笑)

    漫画も読んでましたが、家が裕福ではなかったので、買ってもらえるのは誕生日とかの特別な日だけ。数冊だけ持っていた光文社のカッパコミックス版のアトムは宝物で、ボロボロになるまで読み返しました。そして、ある日気がついたんです。「アトムも自分で描けばタダだぞ」と。そこから僕の漫画家人生がスタートしたとも言えるわけです。ということで、今日から僕は堂々と”手塚チルドレン”を名乗りたいと思います。(笑)

    手塚) もともと一人遊びで絵を描き始めたんですね。

    喜国) 一人っ子で、近所に同じ年齢の友達が少なかったのが理由の一つ。もう一つはさっき言った貧乏。自分で描けばお金がかからない。紙と鉛筆があれば何時間でも夢中になれる。紙がない時は地面に木の枝で描いてました。昔は舗装道路じゃなかったですしね、…ってまるで戦後の話ですけど、当時の田舎はそんなもんでした。 今回のテーマである”セクシャル”にしても、目の前にあったのはウランちゃんだけ。まだセクシーの概念もありませんでしたが、ウランちゃんのパンチラには魅かれるものがありました。

    手塚) 現実にあんなスカート短くて、パンツが丸見えという事は無いですよね。

    喜国) 小学校4年生の時、少年ジャンプで『ハレンチ学園』が始まり、初めてエッチな気持ちで漫画を読むことになるんですが、意識下ではウランちゃんを始めとする手塚キャラでセクシャルの概念が出来ていたと思います。 例えばこのフィギュアはどうです? アトムが年上の女性からお尻にエネルギーを注入してもらってるんですが、これはM男的にはたまらないシチュエーションですよ。

    image003

    IMG_8797-300

    手塚) このフィギュアを作った人もこのポーズには別の意味を持たせていますよね。(笑)

    喜国) アトムグッズを買っていたらキリがないので、なるべく手を出さないようにしてるんですが、これだけは僕が買わなきゃと思いまして。(笑) このシーンは漫画からとられているんですけど、読んでる当時はもちろんセクシャルだとは思ってないのですが、こうやって手塚先生には長い年月をかけて潜在意識にいろいろなものを植え付けられていたというわけです。

    手塚) アトムだからまだ品があるけれど。

    喜国) 巧妙で危険です。

    手塚) 国樹さんは?

    国樹) 子供の頃見たアニメが衝撃でした。その印象が強すぎて、私は『COMIC CUE手塚治虫REMIX』号に参加させていただいた時、『三つ目がとおる』のお風呂シーンを描いたんです。同級生の和登さんに体を洗ってもらう写楽くんというシチュエーションがエロすぎると。(笑) 手塚先生はかなりきわどい絵を描かれても上品で。そういうところも憧れます。

    喜国) 男の写楽くんより女の和登さんの方が大きいという対比はM心をくすぐります。

    手塚) お母さんと息子、お姉さんと弟っていう。

    国樹) そして、手塚先生の女性キャラクターは足先が小さいですよね。あれが凄いエロティックに見えて仕方なかったです。中国の纏足(てんそく)的なセクシーさというか。不安定さと可愛らしさの同居という感じでしょうか。

    手塚) 『COMIC CUE』の中で、国樹さんが”手塚作品の可愛いシーン”を沢山取り上げてくれて、あらためて手塚の描く可愛さを知ることが出来ましたね。

    国樹) 本当に「可愛いー!」って身悶えしながら読んでいました。『COMIC CUE』では自分絵で手塚先生キャラを描いてみたものの、全く太刀打ち出来なくて。元絵が可愛すぎるんです。人間も動物も愛くるしい。

    「らびちゃん」

    「らびちゃん」


    “トラウマ”の宝庫

    手塚) 喜国さんがあの『COMIC CUE』で『アポロの歌』をトリビュートで描いてくれたじゃないですか。それまであの漫画についてなんとも思っていなかったのですが、喜国さんの作品を読んで、「あっ! そういうことなんだ」というのを改めて感じました。それまで父親の作品をエロティックだとかセクシーだとか考えなかったのに、こういう見方もあるんだと気づかされたんですよ。

    喜国) 『アポロの歌』は僕と田中圭一くんの性癖を決定づけてくれました。あ、イカン。田中圭一の名前は絶対に出さないと決めていたのについ。(笑)

    手塚) お母さんがエッチしているシーンを見ちゃうというのは相当なトラウマになるんだろうなと思って。

    喜国) 1968年に『ハレンチ学園』が始まり「少年マガジン」では劇画が始まり、70年頃は少年漫画と青年漫画の垣根が曖昧になった時期で、手塚先生の『アポロの歌』も大いなるチャレンジでした。

    手塚) 『やけっぱちのマリア』あたりの時代ですよね。

    国樹) 男の人はこんなことを考えているのかと思いました。私は手塚先生の作品をリアルタイムでも読みましたが、後追いで読んだものが多いです。大人になっていたからこそ理解出来た作品も沢山ありますね。

    喜国) 由香ちゃんが僕のアシスタントだった頃、仕事場にあった手塚全集を片っ端から読んでました。最初の印税が入った時に、高田馬場の未来堂書店でまとめて300冊買ったヤツだったんですけどね。僕はじっくり時間をかけて読んでたのに、彼女はまとめてガーッて読むんです。「ああ、勿体ない。もっとゆっくり読みなさい! 違うっ、火の鳥はそうやって読むものじゃない!!」って注意するのですが、止まらなくて。(笑)

    国樹) 喜国さんが買ったのに私が先に読了してしまって。(笑)

    喜国) 僕なんか読む順番も考えてましたよ。『ブッダ』とか『火の鳥』とか大好きな作品はとっておいて、連載が中断した作品や短編集から読んでいくんですよ。

    手塚) 300冊が一気に自宅に届いたら、その読み甲斐といったら相当なものですものね。一日一冊読んでいったとしても300日はかかりますね。(笑)

    喜国) 一日一冊なんてもったいない。一日一話ずつ。(笑)

    国樹) 私は『ブラック・ジャック』も一日で全話読んでしまいましたね。昔読んだ作品ということもありましたが、全話分を一気読みしないと気がすまない性格で。特に手塚先生の作品は面白すぎるから、本当に止めどころが判らなかったです。

    喜国) ああ、己の身体に染み込んだ貧乏性が恨めしい。

    手塚) じっくり読んでる中から、特にエロに限っているわけではないのに『COMIC CUE手塚治虫REMIX』号で『アポロの歌』を選んだというのはなんでだったんですか?

    喜国) 『COMIC CUE』のあとがきにも書きましたが、手塚治虫は僕らに夢と希望を与えてくれたと同時に悲しみや絶望も示してくれました。最初に言った”アトムの死”のように。 僕にとっての手塚作品は、やはりそちらなんです、だから僕のトラウマに焦点を当ててみようかなと。

    手塚) 手塚ファンの中には、むしろそんなどろどろした気持ち悪くなるような作品を読んで心に引っかかった人もいると思うんですよ。

    喜国) トラウマといえば『マグマ大使』にもありました。ロケット姿のマグマ大使がガロンに殴られているシーンなんですが、内蔵が飛び散っているんです。「え、マグマ大使って、ロボットじゃなかったの?」ってビックリしてね。機械だと痛みは感じないんですけど、内臓は痛い。しかも連載ではその回はカラーで、内蔵がピンクで塗られているんですよ。で、そんなとこ見たくないのに、気がつくと開いてそこだけ読み返している。あれも今考えると、セクシャルな気持ちで見ていたのかもしれません。

    手塚) ロボットという鋼鉄なイメージのあるものから内臓的な血の通ったものが出るっていうギャップが凄いですよね。アトムもロボットなんだけど人間よりやわらかそうに見える。

    「マグマ大使 ブラックガロン編」

    「マグマ大使 ブラックガロン編」


    ”可愛い”の宝庫

    喜国) 今回のテーマ”美女画”に話を戻すと、『マコとルミとチイ』の母親がいいですね。美しい上にどんな危機的状況でも笑顔でいられる性格にグッときます。

    手塚) 喜国さんはマザコンではないですか?

    喜国) 違います。僕が好きなのはあくまでも”ママ”であって、四国にいる”オカン”ではありません。”実際のオカン”と”心の中のママ”は別物です。ここは大事なところですから、ハッキリ言っておきます。『マコとルミとチイ』のママは『バカボン』のママと合わせて、僕にとっての二大ママです。

    手塚) 凄いところを指してきましたね。(笑) でもこれが描かれたのは私が中学生くらいの頃で、長電話してたシーンとか当時の実際のエピソードが色々使われてますね。漫画のネタにしようとどこかで隠れて見ていたのか。単行本で読んだ時、どこで父は見てたんだ!? と思いましたね。 長電話の相手の男の子から告白されて「ええー、ウソー」みたいな場面とか。まさか父親が見ていたとは思っていなかったので驚きましたね。丁度中学の時でした。あと母が交通事故に合ったり、近所の工場が火事になったり、結構事実が入っているんです。

    喜国) 『マコとルミとチイ』ファンの僕としては、まさかこうやって”ルミ”ご本人と会えるとは思っていませんでした。

    国樹) 手塚先生が大人の女性キャラクターを描く時、モデルはいらしたのでしょうか。

    手塚) それはありますね。あれは母なんだと思っていましたけれど、どうもそうではなさそうなんです。少年時代のやさしかった母親の面影だったり、初恋が年上の女性だったようなのでそういった部分もあるかもしれないですね。

    喜国) 男子は先生のこと好きになったり、遠足でバスガイドさんのこと好きになったりしますからね。

    手塚) 後は宝塚歌劇を見て育ったので、宝塚のお姉さんたちの凛々しく麗しくという女性像が出来ている。スタイルも理想のスタイルになってますよね。父は凄いマザコンでしたから。 年をとると少年に戻っていくのかもしれませんね。 国樹さんは女性からみて手塚キャラのエロスをどこに感じていましたか?

    国樹) 繰り返しになりますが女性の足が小さいところ。纏足的だけれど悲壮なイメージはなくて、ただひたすら可愛らしいです。 リボンの騎士のサファイアは可愛くてパンク。当時はみんながサファイアに憧れましたよね。今見ても魅力が色褪せないのだから当然。

    手塚) アトムは足が大きいんですが、女性キャラを描くと確かに小さくなりますね。 だいたい22センチくらいですよね。足を小さく描かれると色っぽく感じるんでしょうか。

    国樹) 私が学園漫画を描くと手も足も大きめになってしまいます。男性キャラならありだけれど、ヒロインは足が小さいほうが断然セクシーで可愛いのではと。でも、自分では上手く表現出来ません。

    手塚) 言われてみると少女マンガの人物は足が小さいですよね。

    国樹) 手塚先生のデフォルメが大好きなんです。すごく漫画的に描かれているのに、不自然さが全然ない。

    手塚) 男性キャラは手足の先が大きいですよね。女性キャラは頭の大きさからするとバランスが小さい。

    「ふしぎなメルモ」

    「ふしぎなメルモ」

    手塚) デフォルメはご自身の作品の絵柄に影響はあるんでしょうか?

    国樹) 自分は初連載が犬漫画だったんです。いざ自分で描いてみて、手塚先生の描かれる動物の偉大さを再認識しました。

    手塚) 今回の美女画展のテーマはエロスですけれど、次にまた展覧会を企画するとしたら“可愛い”というテーマでやりたいというのは凄くあります。

    国樹) 是非! レオのちょっとしたしぐさなんて、悶絶ものの可愛さです。

    喜国) 今なら狙ってやるんでしょうけど、手塚先生の時代は狙ってないですからね。ストーリー上必要だから描いているだけですよね。

    手塚) この時代にはまだ“可愛い”という切り口はそんなになかったから。むしろ取り上げるなら今だなと思いましたね。

    国樹) 可愛い特集で本を一冊出していただきたいです!

    =>「影響を受けた」なんて恥ずかしくて言えない