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手塚るみ子さんをホストに迎え、毎回ゲストから自分の分岐点となった局面を伺い、創作の秘密を掘り下げていく対談企画・Crossroad。

第二回目のゲストにお迎えしたのは、漫画家の田中圭一さん。『ドクター秩父山』 、『昆虫物語ピースケの冒険』等の作品に加えて、手塚治虫タッチの絵柄で描かれた『田中圭一最低漫画全集 神罰』等、パロディ漫画家として多数の代表作を世に出されています。

最近では『田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-』、『Gのサムライ』、『うつヌケ 〜うつトンネルを抜けた人たち〜 』等WEB上での作品発表も積極的に展開。その他、京都精華大学マンガ学科ギャグマンガコース特任准教授も務められているという、マルチな活動を続けられています。

1994年、『COMIC CUE Vol.SIX』(イースト・プレス)手塚治虫リミックス号に手塚プロダクションの公認パロディ 『神は天にいまし 世はすべてことも ないわきゃあない』発表以来親交のあるという田中さんと手塚さん。

田中さんの”自分の分岐点となった局面”となったイラストを元に、二人の対談が始まりました。


劇画村塾がきっかけではない!?-

手塚:今日はよろしくお願いします。 田中さんとかしこまった形でお話するのは、珍しいですね。いつもは飲みながらのお喋りで、しかも下ネタで盛り上がることが多いから。

田中:下ネタ以外の話はしてない気がしますね。

手塚:今日は占いで、おうし座は『口は災いのもとになり、関係が悪化する』と言われて、よりによって対談の日に…と思いました。ちょっと気をつけようと思います。

田中:関係が悪化するんですね。世間的には完全に悪化している状態ですから、これ以上はないですよ。

手塚:では、まず、なぜ漫画家になったか、そのきっかけからお伺いします。「自分の分岐点となった局面」を絵にしていただいてますが・・・

田中: (『Crossroad』vol.1 ゲストの)浦沢直樹先生の次に描くということで、プレッシャーがかかりました。これが漫画家を目指したきっかけの絵です。

田中圭一先生 クロスロード 3 24

手塚:ご丁寧にありがとうございます。これはトイレを我慢している絵ですか?

田中:違います(笑)。この絵は漫画家を目指そうと決意した場面です。 小学生の頃から、ノートに漫画とかは描いていて、憧れとして漫画家になりたいという思いはありました。それで、現実として、なれるかと考えると「まあ無理かな」とか、「ひょっとしたらなれるかも」といった感じで…。小さい頃から漫画家に絶対なりたいと思っていた人とは、違うタイプだと思います。

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田中:やっぱりきっかけとなったのは、小池一夫先生の劇画村塾神戸校が開校して、そこに通うようになったことですね。 当時、東京の一期生の高橋留美子さんが、大ブレイクしている最中でした。そこで、高橋さんが生徒だった、また『子連れ狼』の原作者が教える塾というのはどんなものなのかと気になって。 門下生になるというより、どんな授業をしているのかという好奇心から受けはじめたんです。

劇画村塾は最初に生徒を大人数、受け入れて、一年間教えて、二年目は三十人に絞って、その人たちがデビューできるまでの道筋を教えていくんです。要するに、一般教養と専門職といった感じですね。 だから一年目は漫画らしいものが描ければ入れるんです。僕は劇画村塾の一年目に、自分がどんな漫画を描くべきなのか迷いがあったんですよ。面白いこと言うのが好きなので、ギャグがいいかなと思ったんですが、紙に描いてみるとさっぱり面白くないんです。それでギャグなのかストーリーなのか迷っていたんです。

ちょうどそんなとき、授業前に近所の本屋へ入って、泉昌之さんの『かっこいいスキヤキ』を見つけたんです。タイトルはちらほら耳にしていて、「最近みんなが話題にしているマンガってこれか」と思って読んでみたら、「こんなギャグマンガ見たことないや」と衝撃を受けました。 シリアスな劇画タッチで淡々と進むんですが、やっていることはとんでもなくバカなんですよ。 『かっこいいスキヤキ』は、シリアスな絵でバカなことをするというギャップがもの凄くて、これが自分の目指す方向なんだなと気がつきました。 「これは面白い」と思ったので、授業中も机の下で笑いをこらえながら、読んでいましたね。

ですから、この絵(田中氏が漫画家を目指したときの場面の絵)は、小池先生が真剣に授業をしているときに、僕が漫画を読んでいる場面です。小池先生も気がついていたんだと思いますよ。「こいつ授業中、笑いこらえながら、何読んでやがるんだ」と思っていたでしょうね。

手塚:劇画村塾がきっかけじゃないじゃないですか(笑)

田中:でもそこで、課題を描いて、評価されてデビューするというルートができていたんですよ。 “料理人を目指そうと思ったら、たまたま実家がトンカツ屋だった”みたいな距離感。ちょうどこの漫画が好き、それで描きたいと思って描いたら、評価がよかった。 それで、小池さんの会社が出していた、『コミック劇画村塾』という雑誌に載って、デビューできたんです。仮に「こういうのがいいな」と思っても、その後、原稿を描いて、投稿持ち込みへ行くのはすごいエネルギーがいるじゃないですか。そこまでやるほどの情熱は僕にはなかったので、両方の合わせ技のタイミングだったんですね。

手塚:最初は興味本位だとしても、劇画村塾に通うとしたら、結構長いスパンをとられるじゃないですか。どうして何年も通えたんでしょうか。大学を卒業してから、通われたんですよね。

田中:大学に行きながら、塾には通っていましたね。月に一回第三金曜日に、社会人やりながら勉強している方もたくさんいたので、劇画村塾は遅い時間にスタートなんですよ。

手塚:漫画のほうの道を選んで、大学の道をおろそかにすることなく、両立されていたんですよね。

田中:そうですね。そういうと聞こえがいいですが、「絶対にプロになりたい」という情熱がなかったし、中途半端に真面目だったんです。大学の単位をとるため課題もしないと、と思いながら、一方で塾でも課題があるから、と描いていただけですね。


サラリーマンとの両立

4C9A41971手塚:就職活動はされたんですよね。 ギャグ漫画家としての自分の道が見えつつも、社会人としての田中さんもいて、それが両立したまま社会に出ていったという感じですか?

田中:大学三年生のときに、曲がりなりにもデビューをして、四年のときには劇画調四コマを連載していたんですよ。大学卒業の頃には、その連載を六回か七回やっていて、毎回6ページくらい連載していたんです。漫画家になりたいという情熱が高ければ、その作品一本で、他の出版社を回ったりしていく道はありました。 でも、四年生で就職しなきゃという気持ちもありました。

当時はバブルの時代でしたから、三流大学でもいい会社に入れたんですよね。でも、文系だったので企画開発職は無理だったし、まぁ、営業くらいしかやらせてもらえないだろうな、とは感じていました。 それなら、よくわからないものを売るくらいなら、好きなものを売りたいなと思って、プラモデルと玩具のメーカーを受けたんですね。それで二社ほど内定をもらえて、好きな方のメーカーに入社。

漫画は中途半端に連載があって、ここでやめるのはおしいな、という気持ちもあるし、編集部からも、「月に6ページだから、当面は様子見で続けたら」と言われたので、「やります」と。流された感はありますが、大変だなと思いながらも続いて、今に至ります。

手塚:漫画家には、漫画家になりたいと思って進んだ人と、なれるから漫画家になったという人がいるかと思うんです。 田中さんは後者だと思うのですが、仕事を捨てなかったというところが珍しいです。

田中:漫画の仕事があるから、サラリーマンはつまらなかったらやめてやろうと思っていたんですが、仕事は楽しくて続けられました。 よくバブル期の営業マンは華やかに語られますが、当時の営業はとんでもなく高いノルマを課せられるんです。昨年度より三十パーセントアップという目標を、どの会社もクリアしていったからこそバブルになったともいえるのです。けれど、そこで下働きする私たちは、バブルではよい思いをしてないんですよ。大変でした。 でも、玩具は毎月いろいろな商品が出てきて、売り場でリカちゃんサイン会などの催事がありました。

僕はアニメや漫画が好きだったので、「あの漫画がアニメ化して、その製品がうちから出るの?」みたいな、業界とのリンクもあったりして、それが楽しかったんです。 あとは体育会系の職場だったから厳しくもあるけど、明るい人が多くて、ガツガツ仕事して夜の飲み会とかでバカやって凄く楽しかったですね。 それに漫画も単行本で十万部くらい出ていたので、どちらの生活も捨てられなかったですね。表裏一体の充実感はありました。

手塚:ずっと兼業でサラリーマンと漫画家をやってきて、仕事配分と精神的な配分はどうしていますか? 田中さんは真面目だから、どっちもがっつりやるとは思うのですが。

田中:そうですね。玩具メーカーの日常って色々と破天荒なエピソードも多くて、そうしたものを土日の漫画作成のアイディアとして取り入れられる。つまり、常にネタがインプットができるので、ラッキーな状態でもあったんです。

手塚:普通の人は、AというものをAとインプットするけれど、田中さんはギャグ漫画家だから、Aというものをインプットして、Aとは別の面白いものに変換してアウトプットすることができたと思うんですね。

田中:僕は中学、高校と関西にいたので、いわゆるクラスの面白いやつを目指していたこともあるんです。そこでノリつっこみやボケとか笑いの基礎というものを学びましたね。 関東に比べると、関西は面白いやつがモテるんですよ。ルックスで負けていても、ギャグセンスで挽回できる。

手塚:田中さんは関西の面白い男の子でも、体でバカやって受けるのではなく、頭をつかって話で笑わせる派な気がします。

田中:どちらかというと、そうですね。運動神経はよくはなかったので、体で笑わせるより、話芸やちょっとした間の取り方とか、変なものを作って笑いとるのは大好きでしたね。それが漫画にそのまま繋がっていますね。


影響を受けた漫画家

手塚:子どものときから漫画を読んでいて、影響を受けた人はいましたか?

田中:ギャグ漫画は好きで、中でもパロディとかサブカル系のものが好きでしたね。パロディがすごいと思ったのは、ラジオ番組で 『欽ちゃんのドンといってみよう!』のまとめ本があって、それに新聞のテレビ欄が見開きであったんです。それをよく見ると、隅々まで全部パロディになっていたんです。どこを見ても笑えて、パロディは面白いんだと思いました。

サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』とかの読者投稿コーナーとか立ち読みするようになったし、あとはアニメ雑誌で『月刊OUT』があって、あれはアニメを取り上げつつも、読者投稿がメインであったし、そこからゆうきまさみさんとかがデビューしたりしていていましたね。 もちろん、王道のギャグ漫画、低学年で赤塚不二夫さんの『天才バカボン』、高学年になってからは山上たつひこさんの『がきデカ』とかも好きでしたね。

手塚:やっぱりストーリー漫画よりもギャグ漫画のほうが、好きだったのですか。

田中:関西の風土があって、お笑いが好きだったのはあります。もちろんシリアスも好きで、自分が小学校、中学校のときに胸をときめかしたのは、手塚治虫先生だったり、松本零士先生だったんですよね。 手塚先生の絵を真似たいと思ったきっかけになる、自分の根っこにあるのは昭和の漫画の数々でしたから。 やっぱり小学校、中学校のときに、胸をときめかせた漫画というのは根深いものがありますね。

手塚:当時は雑誌単位で読んでますよね。

田中:あのときの漫画は、型破りのものも王道なものも同じ雑誌に載っていたし、コンテンツとして「これはやっちゃだめ、これはやっていい」というようなセオリーがブラッシュアップされる前の段階ですよね。面白ければなんでもぶち込んでしまえといった風潮がありました。あの頃の漫画をたくさん読んでいたというのは、幸運だったなと思います。

手塚先生の漫画というのは、僕より上の世代の人が崇拝していて、むしろ一歩引いた距離で読んでいました。どっぷりとはまったのは『ブラック・ジャック』とか『三つ目がとおる』以降になります。小学校四、五年くらいですね。そこから、『火の鳥』などの作品を読んできました。 『火の鳥』は、雑誌サイズのまとめ本を読んでいましたね。あのスケールのすごさは桁が違うな、と思いました。みんなが手塚治虫を崇拝するゆえんかなと思いました。

手塚:田中さんの口から『火の鳥』の話がでるのが、凄く違和感がありますね(笑)。 前回対談ゲストの浦沢直樹さんなら、ふんふんと聞くのに、田中さんが真面目な話してるのは、違和感がある。

田中:江頭2:50が「黒澤映画のこんなところがよい」と真剣に話しているとか、そんなノリでしょ。

手塚:なんとなく素直に聞けない(笑)。

田中:当時ギャグ漫画とかお笑い番組とか好きでしたよ。『オレたちひょうきん族』は大学生くらいのときかな。笑いすぎて、画面が見られないくらいでしたね。

手塚:ナンセンスなバラエティーが多かったですよね。脈絡がない。ある種パロディのようなものとか。

田中:マンガでは赤塚不二夫先生の『レッツラゴン』なんか、とくに脈絡ないですよね。ロジックでは出てこない、感性で作られているものには憧れを感じますよね。 くしゃみすると上の棚からタライが落ちてくるというのは、一種のロジカルじゃないですか。でも『ひょうきん族』で、ビートたけしと明石家さんまが会話がかみ合わなくなって、わやくちゃなことを話しはじめるのは意味がないし、わけがわからない。 ロジックで作られたものは、感性で生み出したものに勝てないんですよね。

手塚:田中さんもそんな感性にもとづく漫画を生み出したいと思っているんですよね。ただ田中さんの場合は下品とか下劣とか、そっち方面へ行くじゃないですか。そもそも何がきっかけでそっちへ行ったんですか?

田中:二十代で、そういった下ネタ漫画を描いているのは問題ないと思うんですよ。相原コージさんや喜国雅彦さんも、そうしたものを描いていました。でも僕は、五十代になってもまだ描いている。これは頭を悩ませなければいけないところですよね。相原さんも喜国さんもそれなりの年の取り方をして、年相応の作品を描いているにも関わらず、僕は『Gのサムライ』のようなものを描いているわけですよ。何を間違えたっていう(笑)。

手塚:絵は丁寧なのに、描く内容がひどい。そのギャップが田中さんの魅力だと思うのですが、真面目な話だったりしても、まったく逆のパロディにしてしまって、底辺まで落とすというのは小学生の男子レベルの考え方ですよね。

田中:もしも江頭2:50が六十歳まで同じ芸風なら、もう、あきれて笑うしかないといった感じですよね。僕の頭には中学二年生の自分が住み着いているんです。オナニーだとか包茎だ、という話に熱くなるし、セックスの経験がない中で、実際はこうじゃないかという妄想だけで話をしている。もちろん実体験はしているのですが、頭の中では童貞なんですよ。

手塚:女子から凄く蔑まれている年齢ですね。

田中:さくらももこさんが、「中二男子ほど、バカな生き物はいないんだ」と言っていますからね。


田中圭一が見るギャグ漫画の分岐点

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手塚:原点はそこにあって、芸風は変わらずですが、デビューした頃からそうした芸風だったのですか?

田中:当時はそこまで酷くなかったですけど、相原コージさんとかが『スピリッツ』の巻末の4コマで、「商業誌でこんなこと描いていいのか?」と思われるようなものを描いていたことがあって、「スピリッツに載っているんだし、こういうの描いてもアリなのね」と気がついたんです。 そういう意味で、アンモラルギャグにおける未開のジャングルをひとりで切り開いていったのが、相原さんだったんですね。あと喜国さんも同じ時期かな。

手塚:『週刊スピリッツ』はセンセーショナルな雑誌でしたね。吉田戦車さんも『伝染るんです。』を連載されていましたよね。

田中:戦車さんが、ギャグ漫画にとどめを刺したと思うんです。あれ以上、尖りようがなくなってしまった感はありましたね。 劇画村塾にいた頃は、「まったく意味がわからないギャグはやめなさい」という指導もあったと思うんですよ。僕は当時デビューして、単行本も出しつつある時代ではあったのですが、世の中的には『スピリッツ』の巻末に『伝染るんです。』が載ってしまうと、「意味がわからないギャグはダメです」とは言えないですよね。なにしろ、もの凄く面白かったから。

手塚:あの当時はいろいろ斬新なものがありましたよね。

田中:相原さんが連載する前は、原律子さんが衝撃的な作品を描かれていました。

手塚:そうですね。女流漫画家さんがああいう下ネタギャグを描くというのはなかったですね。

田中:あっけらかんとしているからよかったものの、女の人でここまで描くんだ、と思いましたね。 時代的には、吉田戦車さんが出てきて、よかったんです。あの人が、お下劣以外じゃないギャグでブレイクしたので、お下劣はせき止められたんですね。下ネタがエスカレートしていったら、大変なことになっていたかもしれないですよね。

時代的にも遊人さんの『ANGEL』が有害コミックとなったじゃないですか、あの時代に吉田戦車さんがいたので、ギャグは下ネタのほうへ進まなかったんですよね。流れが不条理に進んでいったんです。だから、ギャグ漫画は当時、槍玉に挙げられなかったんですよ。

手塚:吉田さんの影響は大きいんですね。

田中:あの流れで、『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!! マサルさん』(うすた京介)や『ギャグ漫画日和』(増田こうすけ)とか、多くの不条理ギャグマンガが生まれたので、吉田さんがいなかったらひょっとしたら、ギャグ漫画はヤバい方向に進んで滅びていたかもしれない。下ネタの方へ行くだけ行ってしまって、結果『あずまんが大王』(あずまきよひこ)のようなほのぼの笑える系に主流をさらわれていた可能性はありますよね。

手塚:当時『スピリッツ』は、いろいろな影響力を持つ作家の宝庫でしたよね。誰もが通勤電車で『スピリッツ』を読んでいました。

田中:『スピリッツ』を好んで読んでいたのは、最先端のトレンドを追いかけていた人々で、おしゃれでトレンディな漫画がたくさん載っていたから、支持されていた。でもスマートフォンだとかガラケーだとかで情報をチェックするほうがトレンドの最先端だとなった瞬間、今まで読んでいた人が、雑誌を買わずにそっちへ行ってしまったので、『スピリッツ』も方向を変えざるを得なかったのかなと思いますね。個人的には。

=> 手塚治虫リスペクト-

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