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2014年11月16日。兵庫県宝塚市にある宝塚市立手塚治虫記念館にて”開館20周年記念・浦沢直樹×手塚眞「手塚治虫 天才の息子たち」”と題されたトークショーが開催。

ヴィジュアリストであり宝塚市立手塚治虫記念館名誉館長でもある手塚治虫の長男・手塚眞さん、手塚作品を自らの作品の育ての親として尊敬しているという漫画家・浦沢直樹さんのお二人による記念すべき対談が行われました。

「手塚治虫は自分の中央にいる存在」と語る二人が、手塚治虫のマンガ・アニメの魅力、そしてそれらを元に構成される自らの作品について語られたトークショー。

会場になった宝塚ホテル宝寿の間には開始時間と共にT-REXの「20世紀少年」のBGMが流れ出し楽曲に乗せて二人の”息子達”が登場。注目の対談が始まりました。


“20th Century Boy”

手塚:
 浦沢さんとは度々お話はしているんですが、こうやって人前で話すのは実は初めてですね。今日は登場から賑やかな曲がかかっていましたがあの曲のご説明をお願いできますか?

浦沢: あれはT-REXというバンドが1972年くらいに発売して大ヒットした「20th Century Boy」という曲です。

手塚:  “20世紀少年”ですね

浦沢: あの曲は東京で来日中に東芝のスタジオでレコーディングされたんです。僕は中学生の時にお昼の校内放送でこの曲をかけた事があるんです。

当時の構内放送ではクラッシックとかムード音楽のような曲ばかりが流れていたので、ロックのレコードをかける前は「この曲をかけたら学校中がひっくり返るぞ!」と思ってワクワクしていたんです。お昼の放送で「ガーッ!」と曲が実際に流れて、クラスに戻って同級生に「どうだった?」と聞いたら「何が?」と返されて、「今凄い曲がかかったじゃん」って(笑)。自分としては革命的な行為だったんですけど誰も聞いていなかった。何も変わらなかったんです。

後々になってわかったんですけど、ミュージシャンの小室哲也さんが同じ中学校の一学年上にいて放送部だったんですが、、当時T-REXがかかった事を覚えていて、聞いていた人が居たんだって思いました(笑)。

手塚: そういったエピソードが何年も経って『20世紀少年』という作品に形作られていくんですね。

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“漫画をポップにしていくための量産”

手塚: 浦沢さんは手塚治虫記念館に来られたのは初めてという事ですが訪れてみて如何ですか?

浦沢: 素晴らしいですね。常設展示室の火の鳥をイメージしたカプセルのディスプレイ等良いですね。中に入りたいくらいです(笑)。

手塚: 浦沢さんが1960年生まれで、私が61年生まれなので同年代で手塚治虫の子供世代という事になりますね。手塚治虫は長く作家活動を続けてましたので読者がいつの世代に作品を読んだかによって印象が変わるんです。

浦沢: 僕は『鉄腕アトム』は5歳くらいの時に読んでるんですよ。子供なのに「こん何せつない話は初めて読んだ」と思っていたんです(笑)。なんであの時にそういう風に感じたのか今でも不思議なんですけど。『鉄腕アトム』の最終回はアニメで観ました。

手塚: 『鉄腕アトム』のテレビアニメは1963年から66年迄の放送なので、子供なりにかなり理解出来る年齢ですね

浦沢: 御自宅内に虫プロダクションのスタジオがあって『鉄腕アトム』が生み出されるというのはどういった感覚なんでしょう?

手塚: そういうものだと思って育って来てしまったので、殊更それが特別だとは思ってい無かったですね。テレビで人気があったり、父親と家族旅行を兼ねた地方の講演会等に行くと大勢のファンの方が集まって下さったりしているのを観て、父親はそういう立場の人なんだという理解はしていましたが、だからと言って毎週『鉄腕アトム』を見ようとはしなかったです。

浦沢: 違う番組を観てお母様に怒られたと伺いましたが?

手塚: 手塚治虫の漫画やアニメは何時でも触れられるという感覚があって決して珍しいものでは無かったんです。

浦沢: うちの子供も僕の漫画は全然読まないですね(笑) 怖いから嫌だと言われます。

手塚: 僕らが物心付く頃から手塚治虫はそれまでと少し違った方向の作品を発表し始めるんですね

浦沢: 漫画もアニメも百花繚乱で色々な作家さんが台頭して来ました。

手塚: 沢山作品がある中で手塚作品を選んでもらわないといけない。当時も作品数としては誰にも負けないくらい創作していたと思いますが必ずしも全てがヒットするわけではない。

浦沢: 少年漫画、少女漫画、青年漫画と全部のジャンルを描かれていますよね。

手塚: 新しい雑誌が創刊されると掲載されるのでほぼすべての雑誌に作品が掲載されていたと思います。

浦沢: 僕は週刊誌と隔週誌の同時連載を20年間くらいやったんですけど、シャレにならなくらい本当にきついです(笑)。それを手塚先生は週刊誌2本とか、そこに隔週誌2本とか、月刊誌4本とかのペースで描かれますよね。無茶をすれば何とかなるというレベルではないですね。

手塚: 手塚治虫の代表作というと『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』『ブッダ』『三つ目がとおる』『ユニコ』等がありますが、それを一度に連載していたんです。その他に大人向けのものもいくつか描いてますね。

浦沢: とある編集者に聞いたんですが手塚先生は「読者が待ってる」という言葉が口癖で、ある時原稿の締め切りがタイムリミットを過ぎていて、編集者が「配送トラックが間に合いません」というと、「トラックは僕が手配しますから」と仰られたというエピソードを伺いました。

手塚: 平気でそういう事を言いますね。ある時は空港の税関で漫画を描いていて「後もう少しで終わるから飛行機を待たせておいて下さい」と言って実際に飛行機を止めた事もあるんですが、その時の賠償金は結構な負担だったらしいです。漫画を描くには紙とペンだけあれば出来るので安上がりで良いと思っていたら、結構お金がかかるんです(笑)。

漫画はセリフのふきだし中に文字が入るので写植を打つのですが、それはすぐには出来ないので絵よりも先に編集者に受け渡ししなければならない。通常だと原稿に鉛筆でセリフを描いて渡すのですが、その時間もないので印刷所に編集者が控えていて口頭でそれを伝えるんです。ピノコのセリフとか。傍から観てると可笑しいですよ。しかもそれを手元では別の漫画を描きながらやるんです。

浦沢: 僕も口頭でセリフを伝える事はありますが、別の漫画を描きながらというのは凄いです。

手塚: 何誌も掛け持ちしていると原稿待ちの編集者が何人も待機しているんで、一つの作品を集中して描くのではなく、それぞれの原稿を一枚ずつ並べて同時に描くんです。

浦沢: トランプ描きですね。完成して見るとそれぞれの作品として独立しているわけですね。

漫画というのはアートという側面がありますが、ポップであるという要素もあります。作品がポップに転化するには”量”が必要になるんです。例えばビートルズなんかもアルバムを年に三枚出したりしています。量産というのがポピュラー文化には必要なんですよね。”構想10年”といった作品になると少し文化として重くなってしまうんです。手塚先生の時代に漫画を本当の大衆文化にしていくためには量産でもどうなっているの?というくらいの分量が必要だったんですよね。

1959年に週刊少年漫画雑誌である「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」が創刊されるんですね。誰もが週刊のペースで漫画を描くのは無理だと思っていたのですが、編集部はとりあえずお試しでやってみて無理だったら月一のペースに戻そうという事でやっていたのですが、案の定雑誌が売れたのでそのまま55年間現在まで週刊ペースの創作が続いているんです。

本来は漫画を一週間に一本描くというのは不可能なんです。さらにそこへ1970年代後半から80年にかけて大友克洋が出て来て漫画の絵のクオリティがドンッと変わっちゃったんですね。そのクオリティがスタンダードになってしまって、皆がそのクオリティを追求し出してしまったら絶対に週刊誌掲載は無理なんです。それ以降、作家の休載が増えてしまった。”今週号は作者取材により御休みです”とか80年代以降異様に増えるんです(笑)。

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“中央に鎮座している存在”

手塚: 浦沢さんにとって手塚漫画というのはどんな印象だったんでしょうか?

浦沢: 僕は最初から中央に鎮座しているといったかんじに捉えているんですが、それは手塚先生にとっては相当迷惑な話だと思うんですよ。

若手の石ノ森章太郎先生とかちばてつや先生とか梶原一騎先生とか次から次へと中央を目指して出てきますから大変だろうなと子供の頃から思っていました(笑)。

その頃、時代をリードしていた作家が後進に半歩譲り出しているといったイメージもあったんですが、長年観ているうちに何度も時代に食い下がってくる瞬間を目撃しているんです。そんな中で中学生の時に『火の鳥』を全巻読んだんですが、読み終わった後に家の縁側でボ―ッとしてしまって「凄い物語を描く人がいるなぁ」と思いながら自宅の鬱蒼として庭を眺めていて気がついたら日が暮れていたんです。

それまで沢山の作品が台頭して来ている漫画界の中でレースをしているように思えた手塚先生が『火の鳥』を読んだあの日以来、違うんだ、ぶっちぎってたんだと言う事に気がついたんです。

手塚: 中学生の時に『火の鳥』を読んで感銘を受けられていたとは早いですね。

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浦沢さん持参の蔵書『COM』

浦沢: これが当時の『COM』と『ライオンブックス』なんですが

手塚: 1973年ですね。手塚治虫は当初映画的な手法、カット割りやロングショットがあったりアップが合ったりといったカメラワークを漫画に取り入れて注目された部分があると思いますが実は平面のグラフィカルな表現も多いんです。

浦沢: 漫画の可能性を広げようとしているんですね。

手塚: 初期は映画的手法から始まった部分もありましたが、後期はむしろ漫画的である事がテーマになっていた様な気がします。

浦沢: 手塚先生がおっしゃっていたんですが「自分達の世代が漫画の可能性を広げてきたので、今の若い世代の漫画家には自分達が作ってきた定石を壊す様な、もっと吃驚する様な表現をして欲しい」と。例えば巻物で描いたりとか(笑)。それは難しいと思うんですが、でもそういう発想で可能性を探そうよという事は僕らに向けて発してくれていましたね。

手塚: 今は漫画も量産時代になって、過渡期になって来ていますね。行きすぎた量産という気がします。

浦沢: 商業主義という事も相当進んだので、読者を掴むという意図で読者に気に入られる事をするという部分が優先されすぎてしまっている部分がありますね。

手塚: 色々な漫画が出て来ていますが、漫画ならではの表現というのはこれからも探っていかないといけないんだろうなと思います。

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